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思い出 Archive
東京諸聖徒教会
- 2011年11月30日 15:39
- 思い出
「ちょっと見せたいところがあるんだ」
と、どしゃぶりの中、ワイパーフル作動で車を運転していた弟が、夫と私に言った。
地元であったはずの東京文京区のどこかを走っているんだろうけど、あまりに変わってしまって、おのぼりさんよろしく、外をぼーっと眺めているしかない。
狭い道を幾筋も通り抜け、(こんなに東京の道って狭かったっけ)
「見おぼえない?」
と指差した先に、雨に曇る十字架が見えた。
東京諸聖徒教会
弟と私が通った幼稚園の教会。
あのころと変わらぬ外観をしているというのは、金がないからか、文化財にでもなったのか・・・
「行ってみようよ」
中は、クリスマスの準備中だった。
私が入園したのは、3年保育の9月。
途中からだから、当然私だけが新入生。
いきなり薄暗い礼拝堂に連れてこられ、讃美歌が流れる中、冷たい木の椅子に座らされた。
正面を見ると、ものすごく恐ろしいものが、目に飛び込んできた!
木にぶらさがった痩せこけたおじさん!
次の瞬間、
わ~んっ!
泣き声は、礼拝堂の中をこだまし、ますます私に襲い掛かり、恐怖が倍増され、
わ~んっ!わ~んっ!
母はみっともないと叱り、担任の先生はなだめても、
わ~んっ!わ~んっ!わ~んっ!
とうとうつまみだされてしまった・・・
という4歳の記憶を、弟と夫に話したら、半世紀前の”現場”で、大笑い。
木にぶらさがった痩せこけたおじさん、
じゃなくて、キリスト様(失礼いたしました)は、ミニチュアのようなのが、ぽつんと置いてあった。
これなら、怖くないね・・・
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大雨のなか”箱”に乗る
- 2011年6月16日 14:57
- 思い出
梅雨らしいといえばそれまでだが、天が割れたがごとく、毎日よく降る。
朝、一ッ葉有料道路を飛ばしながら、”あの日”もこんな雨だったなあと、ふと思い出した。
あの日とは、自動車の路上試験の日。
まことに、よく雨が降っていた。
50ccのバイクを駆って、神奈川県平塚市内を、あちこちしていたのだが、2年間で4回事故った。
4回目のときは、救急車があっという間にやってきて、泣きじゃくる私をのせて、東海大学のERへ。
夫は、血相変えて飛んできて、言い渡された。
「”箱”に乗ってろっ!」
”箱”を動かす練習、すなわち自動車教習所では、S字やクランクはおろか、まっすぐも難しくて、なかなかスピードがあげらない。
先生に「今何キロで走っているの?」と聞かれ
「10キロです」
「バイクは何キロ出して走ってたの?」
「70キロです」
「車のほうが、怖くないでしょ」
「厚みがありますから」
あきれはてられたが、なんとか路上試験までこぎつけた。
その日は、ワイパー全開でも、ほとんど前が見えなかった。
姿勢が悪いと言われようと、前が見えなきゃしょうがない。
ハンドルにしがみつくように、運転していた。
先生に「もっとスピード出して、余裕を持って運転しなさい」と言われ
「先生と心中は、したくありませんから」
大雨のなか、写真撮りながら90キロだして運転してたなんて聞いたら、教習所の先生、怒るだろうなあ。
それより夫に
「”箱”に乗るなっ!」って言われるか・・・
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ふじいきいち氏のこと
- 2011年5月26日 17:13
- 思い出
大きい会社でのOLは勤まらないと悟り、近々結婚するであろうことも鑑み、オフコンコンサルのセンセイのところでアルバイトについたのは、今から30年以上前。
週3回の出社でよく、忙しくもなく、本人もあまり事務所におらず、時給もかなり高かった。
なのに、やはり居心地の悪さは、OLと同じなのだ。
なぜか。
それは、私自身の働く姿勢に問題があった。
出社はぎりぎり。化粧もせず、服装も大学生並み。
気働きはできず、おせじも言えず、小生意気で、仕事に対して情熱も使命感もなし。
いらぬ残業で時給稼ぎをする。
コンサルのセンセイの好みに、ぴったりしていたのは、字が下手じゃなかったことだけ。
なのに、当時の私は、そんなことは棚にあげ、ただひたすら、つらかった。
結婚して1年ぐらいして、「1ヶ月後やめます」と言ったら、あっさり「今日でけっこう」と言われた。
30台で夫と起業し、人を雇うことになって、初めて気がついた。
センセイが、私にいらいらしていたことは、雇用主として、正しかった。
それだけではない。
顧客に対する真摯な態度や心配り、仕事をこなすための圧倒的な勉強量、服装、時間管理。
どれをとっても、彼は超一流だった。
私は、自分への戒めのために、いただいた絵を事務所に飾り続けた。
昨年、センセイの秘書をずーっとやっていた人からの年賀状で、海外で客死されたことを知った。
いつか、ふじいきいち氏にお会いして、
お詫びとお礼と、スーツを優雅に着こなすわが姿を、見てもらいたかった・・・。
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韓国の布地

実家で、本箱をごそごそしていたら、母が、本じゃなくて、洋服をあげる、という。
着るものに無頓着な私と違って、母が衣装持ち。
でも、80歳を過ぎて、もう着て行くところもなくなったのであろう。
”泣く泣く”娘に、手放すことにしたらしい。
くれたものを、ろくろく見ないで箱詰めして、宮崎で開けてみた。
布地が出てきた。
私が小学校のとき、大手印刷会社で営業をしていた父は、韓国に出張がきまった。
羽田から出る飛行機を、祖母と母と弟とで、とても誇らしく見送りにいったのを、覚えている。
そのときのおみやげが、この布地2枚。
チマチョゴリを作るのであろうこれは、分厚い正絹。
母は、どうやって保管していたのか、そのときの輝きと、なんら変わりがない。
スーツでも作りなさい、と母は言うが、なんせ家庭科2(5段階で)を通した私には、どうすることもできない。
考えて・・・ブルーはグランドピアノの肩章のように、おめでたい配色のは事務所玄関に配置した。
40年ぶりで、文字通り日の目を見た布地は、太陽の光をうけ、美しい光沢を放っている。
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道端に咲く黄色い彼岸花
- 2010年10月 9日 10:32
- 思い出
子供のころ、彼岸花といったら、赤。
毒があるから、さわっちゃだめ。と祖母から言われていた。
きれいな花には、毒がある、というから、そういうものだと信じていたが、毒があるのは、球根だそうな。
でも漢方では、薬に転じて処方したというから、まさしく毒をもって毒を制するか。
彼岸花が、畑や田んぼのあぜ道に多くみかけるのは、モグラやねずみよけ、とも聞いた。
そのうち、白の彼岸花も見かけるようになった。
亡くなった舅は、彼岸花を仏壇や墓に供えるのを嫌った。
大輪だし、赤と白で、華やかで仏様が喜ぶかと思うのだが、花言葉の「悲しい思い出」を知っていたのだろうか。
舅に教えてもらいたかったこと、それも含めてたくさんがあるが、今となっては叶わぬ夢。
最近は、黄色い彼岸花もよく見かけるようになった。
最初その存在を教えてくれたのは、近所でも極め付きの難しいおばさん。
なぜか、「うちに咲いているから、見においで」と声をかけてくれた。
なんか叱られるのではないか、とびくびくしながら、お宅を訪問したら、5、6本咲いている美しい黄色の彼岸花のまえで、にこにこして立っていた。
ただ私に見せたかっただけだった。
今彼女は、息子さんの手厚い介護の元にあるという。
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ふたりの男と行ったディズニーランド
- 2010年8月 8日 11:02
- 思い出
ひとりめは父。
結婚してしばらくして、ディズニーランドが開園した。
まだ若くて元気があったころだ。
掃いて捨てるほど来ている来場者(私もそのひとりか)も、1,2時間並ぶアトラクションもものともせず、友達とせっせと遊びに行っていた。
他の遊園地とは違う、何回行っても、何度同じものに乗っても楽しい、不思議なところだった。
たまたま実家に行った時、父に話したら、そのうらやましそうな顔ったらなかった。
私の子供のころ、テレビでやっていた「ディズニーアワー」。夢中で見ていたのを思い出した。
番組の最初に登場する、口ひげを生やしたやさしそうなウォルト・ディズニーおじさんが紹介する、おとぎの国など4つのテーマで、父はウエスタンっぽいのが好きだった。
私は、ミッキーマウスの出てくるのが大好き。
いつかアメリカのディズニーランドに、私を連れて行ってやりたい、というより自分が行ってみたい、そんな感じがありありだった。
父に言った。
「こんどふたりで行こうか?」
断るわけがない。
計画したのが夏場。60歳代で、まだ元気だったけど、夜の部に行くことにした。
入園して、まっさきに父が目指したのは、シンデレラ城。やっぱり・・・
どれだけアトラクションに乗るか、が“勝負”の友達と来る場合と違って、父はおみやげやをじっくり覗く。そしてしきりと私に買ってやるという。
もう「ミッキーの耳」や風船を欲しがる年じゃないのに・・・
どうしても乗ってみたいのがあるという。
「何?」
「ゴーカート!」
本物の免許もないのに、父は上手に運転していた。わざと私の車にぶつけては、子供のように嬉しそうに笑っていた。
「アメリカにいかなくとも、いいんだな」
パレードや花火を見て、大満足の一日だった。
もうひとりは、夫。
宮崎に引っ越す直前、たまたま手に入れたチケットで、初めての夫を連れてきた。
駐車スペースをようやく見つけて入場できたのは、昼前。
まずは昼ごはん食べてから、というので、食事ができるところに行って、メニューを見るなり
「ビールがない」
ディズニーランドは、アルコールはおいてないもん、と言ったら
「帰るっ!」
ご冗談でしょ!このチケット、買ったらいくらすると思ってんのよっ!!
「帰るっ!!!ビールがないっ!!!!」
こういうとき、夫と”真っ向勝負”はだめ。
「もう少しすると、パレードが始まって、本物のきれいなシンデレラや白雪姫のおねーさんが出てくるの。それ見てから、おみやげやさんで、なんか好きなもの買ってあげる。帰りは、大好きな割烹で食事しようよ」
言っていて、ばかばかしくなったけど、なんとしても、このただで手に入れたチケット分、アトラクションに入らないとと、私は使命感に燃えていた。
夫は、”きれいなシンデレラのおねーさん”が効いたのか、おとなしくハンバーガーとコーヒーで済ませ、パレード見学の人ごみに入った。
案の定シンデレラや白雪姫を見たら、彼の顔が輝いた。
間髪いれず、「いまアトラクションすいているから、お化け屋敷いこうよ」
と、 ホーンテッドマンションへ。
次は「おみやげやさん覗いてみようよ」
彼が選んだのは、ビーバーのしっぽ付きの毛の帽子。ずーとかぶっていた。
それからは、私の計画通りスムーズにアトラクションを乗りこなし、夜のパレードと花火を見て終了。
「ようやく、ビールにありつけるな」
しょうがないから、付き合ってやってんだ、ってな顔していたけど、けっこうおもしろがってたじゃないの!
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ちょんさん、ありがとう
- 2010年7月 8日 18:22
- 思い出
韓国の俳優さんパク・ヨンハさんが亡くなったことから、ドラマのこと、ソウルのこと、と連想していき、10年ぐらいまえ、社員、友人、家族親類で、ソウルへ行った時のこと、そのことを綴ったことを思い出した。
インチョン空港に私たち一行を出迎えたのは、現地旅行会社から派遣されたちょんさん。
グレーのスーツに身を包み、すっきりした彼女の笑顔は、これから始まる2泊3日のソウル旅行をきっとステキな思い出にさせてくれるであろう予感がありました。
何度も韓国に来たことのある夫と私は、決まっている観光コースもいいけれども、せっかくだから、今までいったことのないところやおいしいものや、韓国の心に触れる旅を、皆を味合わせた。
第二次大戦を知っている姑や叔母は、正直、恐る恐るやってきたという感じだったので。
「楽しい旅できますか?」という質問に、ちょんさんはにっこりして「わかりました。大丈夫!」
翌日の朝食はおかゆ。ホテルの味気ないバイキングはキャンセル。
バスで朝早く街に出て、おいしいおかゆが食べられるなんて!おまけに注文していないいろいろな種類のキムチなどが出てくるのには、皆びっくりするやら感激するやら。
午前中連れて行ってもらったのが、漢江はさんで北朝鮮がみえる国境の観光建物。川向こうから聞こえる音楽に、複雑なこの国の事情や我々日本人も含めての歴史を、皆無言で思っていました。
ソウル市内に戻って、
ちょっと疲れたのでお茶を所望したら、ちょんさんは「おかあさん(姑あらんだまばーちゃん)にきっと気に入ってもらえるところ」と大学街の喫茶店へ。
そこで出てきたゆず茶など、韓国独特の体によさそうなお茶とお菓子は、今でも姑が「あれはおいしかったねえ」と懐かしそうにいいます。
夕飯は宮廷料理と踊りの店。
そのころになると、添乗員であることも忘れ、長年のお友達のようにわいわい。
ホテルに帰ると、明日帰国するのがもったいないぐらい楽しさの余韻があって、「また明日ね」という彼女を引き止め、お部屋で宴会となりました。
お酒が進むにつれ、ちょんさんは私と同行のお友達と同じ歳、昔日本に来て服飾の勉強をしていたこと、韓国に帰って自動車事故にあって生死の境をさまよったこと、知りました。
翌日、インチョン空港では別れ難かった。
彼女のさりげない気配りや思いやりは、“恐る恐る来た”姑や叔母の心を溶かし、今ではチャングムや冬のソナタの熱狂的なファンに変えてしまったのです。
てなこと某紙に書いたら、なんと「ソウルロッテホテルスイートルーム宿泊券」が当たった!!
航空券の方が欲しかったのに・・・
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西河克己監督の逝去を知って
- 2010年4月 8日 17:37
- 思い出
高校2年の冬、教室の扉のガラスにボールがあたって、ちんぐわら。
すぐ修理してくれそうもないので、扉の近くに座っていた生徒が、新聞紙を貼った。
教室の窓からの光で裏面が透け、記事はよく見えないのだが、どうやらスポーツ新聞の芸能欄らしい。
部活の帰り、教室に入ろうとして、なにげなくその新聞紙を見た。
大写しの写真に、息をのんだ。
こんな端正な顔の人が、この世にいるのか。
一瞬で、写真の君に、心を奪われた。
まわりを見回すと、誰もいない。
学級委員長としての理性より、女の本能が勝った。
べらっと剥がし、かばんに入れて、何食わぬ顔をして帰宅。
翌朝、「おはよー」と教室に入ると、別の新聞紙が、今度はガムテープでがっちり貼ってある。
「誰か剥がしちゃったんだよ。さむいのによー。しょーがねーよなー」
それは私です、とは学級委員長として、口が裂けても言えないので、
「早くガラス入れてもらえるよう、頼んでおくね」
写真の君は、西河克己監督の映画に、次々と出始めた。
演技がどうの、共演者はどうのは、一切どうでもよく、ただただ、一挙手一投足を見つめているだけの映画鑑賞。
作品は、ぜーんぶ見た。
彼の結婚は、私たちの式の5か月前。
あちらのご夫婦も私たちも、うん十年つつがなく。
写真の君にいだく思いは、今もかわりなく。
三浦 友和21歳のままです・・・
西河克己監督のご冥福を、心からお祈りするとともに、
9組のみんな、寒い思いさせて、ごめんでした。
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15歳の春
- 2010年3月22日 14:53
- 思い出
卒業や合格発表のニュースを見ながら、あのころのことを思い出していた。
あのころ・・・15歳の春。
私は、まったく希望しなかった高校への入学が決まっていた。
胸はずませるような夢や期待は、皆無。
しかたがないから行ってやってるんだ、と1学期はやっと通ったが、2学期が始まって、気持ちが切れてしまった。
どうしても、登校できない。
布団のなかで、これではいけない、こんなことで終われない、というのと、なんで私がこんな高校にいかなきゃいけないんだ、という気持ちが交錯していた。
1か月ぐらいの葛藤の末、「読んでみろ」と父が渡した『竜馬がゆく』に触発され、剣道部に救いを求めた。
遅い時期に入部してきた私を、暖かく迎え入れてくれた仲間たちは、今でも仲がいい。
数年後、剣道で、夫とめぐりあえた。
ピアノの練習も再開した。
母が捜してくれた新しい先生は、生きる支えとなる音楽、を詰め込んでくれた。
後年、私もそれを、子供たちに教えていた。
少しずつ自分に自信が持てるようになり、まわりから認めてもらえるようになると、純粋に高校から得るものが、わかってくる。
視野が広がった、ということだろう。
今振り返ってみるに、15歳の春は、人生最初のターニングポイントだった。
あのとき、希望の高校に受かって、順風満帆で歩んでいたら、どんな自分になっていたんだろう。
あこがれの有閑マダムの道が待っていた・・・かな・・・
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トキワ荘日記より
- 2009年11月26日 19:13
- 思い出
小学校のころ、マンガといえば「少女フレンド」と「マーガレット」と「少年サンデー」と「少年マガジン」
マンガはご法度が我が家の決まりだったから、買ってはもらえなかったけど、読むのはいとも簡単。
立ち読みやら友だちから借りるやら・・・
高学年になると、読むだけでなく、ストーリーマンガまで描く”すご腕”があらわれ、一時ちょっとしたマンガブームになった。
私はもっぱら「サイボーグ009」
主人公009こと島村ジョーにあこがれ、お友だちの卒業の手帳には、必ずスカーフを風になびかせユニフォーム姿を描いていた。
サイボーグ009が好きってことは、石森章太郎に興味を持つってことで、石森章太郎に興味をもつってことは、彼の原点である、というより、日本のマンガ界の原点である「トキワ荘」を知りたくなるってこと。
マンガ黎明期の旗手たちがつどった、豊島区椎名町のトキワ荘。
いろいろドラマにもなっているが、なんのへんてつもないアパートに、なんでこんなすごい人たちがいたのでしょうね。
手塚治虫、石森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄、寺田ヒロオ・・・そして紅一点の水野英子
鬼籍に入られた方はずいぶん多くなったが、水野さんが回想し、自費出版した本が、このほど南長崎商店街で販売となった。
近くに住む友達の息子くんを走らせ、ゲット!
久しぶりで見た水野英子のマンガと文は、ふだん思い出しもしない、40年前夢中になっていた出来事へと、時空を越えて連れて行ってくれたのです・・・。
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夏休みかあ~
- 2009年8月 5日 17:00
- 思い出
小学校のとき習った、大好きな”夏休みのうた”がある。
となりのおばばがあさあっから~
すいかのばんすりゃ
なつやすみい~
題も忘れ、ここしかおぼえていないけど、リズミカルなこの曲を、幼い弟と笑い転げながら歌っている思い出は、まさしく夏休み。
夕食後、縁側で浴衣を羽織った祖父は、団扇をぱたぱたしながら涼んでいる。
弟と私は、一日中バケツで冷やしていたスイカを祖母と母に切ってもらって、かぶりつく。たねはぺっぺと庭にふく。
それから、父が買ってきた線香花火。どちらが早く火の玉を落すか、弟と競争。絶対私が勝つけど・・・。
東京都心の我が家から、すとーんと富士山が見えた、40数年前の夏の話です。
今年の夏休みは・・・あるのかな・・・

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今日はひな祭り
- 2009年3月 3日 19:03
- 思い出
私の実家に置いてある雛飾りは7段。50年ぶりに生まれた女の子、というので、祖父母が奮発して買ってくれたものだ。
四つか五つのころは、おままごとをするくらい、段々をこしらえ、毛氈をしき、お人形をならべるのは好きだった。もちろん、『ひな祭り』のお歌を歌いながら・・・
おだいりさーまとおひなさま チャカチャンチャン
ふーたりならんで ルルルのルー
およめにいきーたきゃ ねーさまのー
よくにた だんごの ひなまつりー チャン
「ねえねえ、どうしてうちのお雛さまには、”煮ただんご”がないの?」と、人形を包んである和紙を畳んでいた祖母に聞いたら、
「菱餅だと、煮なくていいからね」祖母はすまして答えた。「ふ~ん、そうか」
「もう一回歌ってきかせてよ」「いいよっ!」
得意になって、今度は自作の踊りも交え・・・
おだいりさーまとおひなさま チャカチャンチャン
ふーたりならんで ルルルのルー
およめにいきーたきゃ ねーさまのー
よくにた だんごの ひなまつりー チャンっ!
確かめもしないできたので、私は未だにこの歌詞がよくわからない・・・。
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紫色の服
- 2008年10月21日 19:10
- 思い出
今年は紫が流行だそうだ。だからと言うわけではないが、店屋に入って、紫色のシャツを胸にあててみた。
鏡で見たら・・・似合わない。歳かなあ・・・
30歳代の一時期、紫に凝ったことがある。しまって、ノーブルに見えるのがよかったのか、ともかく買うのは紫色のもの。
とくに好んで着た服は、ニットのワンピース。2枚持っていた。
そのうちの1枚、着ると、妙なことばかり起こった。
絶対電車に乗り遅れる。道に迷う。大切な約束を忘れる。大きな忘れ物をするetc。
でも着心地はとてもいいのだ。だから、いやなことがあっても、忘れてまた着てしまう。
そんなことを繰り返していたら、とてつもない大ミスをやらかした!
家に帰って、服を脱いで、考えた。
この服、絶対何か、とりついている。洗濯しても取れない。これ以上着ていたら、とんでもないことが起こるかもしれない・・・。床に置いた服を見下ろしながら、急に今まで起こったことが思い出され、背筋がぞくぞくした。
捨て魔あげ魔の私は、捨て魔をひっこめ、友達にやった。
「わあ~、ありがとう!すんごくステキじゃん!なんで?もらっていいの?」
もらってちょうだい。捨てたほうがよっぽど怖いもん・・・とは言わなかったが・・・。
彼女の身の上に不吉なことがおこったとは聞かなかった。
彼女と相性がよかったのか。たまたま私は運気が落ちているときに、着ただけだろうか。
紫の服を見ると、いつもあのニットのワンピースを思い出す・・・。
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竜馬がでる
- 2008年9月23日 17:37
- 思い出
日曜日のNHK大河ドラマ『篤姫』の放映を、毎週首を長くして待っている。
気に入ったシーンがあると、場合によっては、夜8時から、BSで同じ日の11時から、土曜日の昼の再放送と、飽きずに3回も見る。
最近、記憶に残るいい場面だなあと思ったのが、井伊直弼と篤姫の茶室でのひとこま。
茶道の大家であった井伊大老が亭主。お互いの凛とした生き様を、微妙な表情や所作で表していた。
この場面、3回見た!
先日、とうとう竜馬登場。勝海舟のところに乗り込んでいって、弟子入りしてしまったという有名な話を、どう演技するのかと、どきどきしながら見ていたけど、玉木宏さん、無難にこなした。ほっ
史学科に通っていたころ・・・私にとって竜馬は魅力の尽きない人だった。でもその男が惚れた男、勝海舟の頭の中身はもっと魅力的に思えた。
『氷川清話』『海舟語録』を読み、アーネスト・サトウの『1外交官から見た明治維新』で、視点がぎゅーっと竜馬から、もっと広い日本の黎明期に旋回した。
志士たちひとりひとりが躍動していた歴史的事実は、30年たった今は記憶のかなた。
しかし彼らの目的意識と使命感は、私の中にしっかり根付いている。
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赤塚さんちの菊千代ちゃん
- 2008年8月 8日 19:45
- 思い出
天才漫画家、赤塚不二夫氏が亡くなった。
小学校のとき、PTAで、いの一番に槍玉にあがるマンガで、父兄や先生方は、目くじらたてて「読んだら毒!」と言っていた。
子供はそういうのを読んで鍛えられていくのよ。
イヤミのまねして、『おそ松くんごっこ』していたクラスの男の子たち、りっぱな紳士に成長し、おとうさんにもなり、社会で活躍しています。
赤塚さんちには、"労働"して税金まで払えるにゃんこがいた。
菊千代ちゃん。
オスかメスかはさだかでないが、デブねこで、テレビのコマーシャルに登場していた。
当時、平塚の我が家につけたねこドアから、複数のおよそのにゃんこが、うちのにゃんこに連れられて出入りしていた。
きっと「うちのおとうさんもおかあさんもやさしいから、大丈夫だよ。ごはんもたくさんあるからおいで~」ってなこと、言っていたのだろう。
その中に「おじゃまします、おじゃまします」とねこドアのから入ってくるのだが、私たちと目があうと、「失礼しました」とすぐ出て行ってしまうデブねこがいた。
図体の割には奥ゆかしいというか、臆病と言うか・・・そのうち「失礼しました」と出て行かなくなった。
その時点で、およそのにゃんこから、うちのにゃんこ。
名前は、コマーシャルのなかでひっくりかえる芸をしていた菊千代ちゃんにそっくりなので、菊ちゃん、とつけた。
菊ちゃんはやっぱり、ものすごく臆病だった。
平塚から宮崎に引越しするので、飛行機に乗せたとき、それはそれは大暴れをした。
狭いゲージに閉じ込められるのが怖かったのだろう。麻酔をえさにまぜたが、彼だけはぜんぜん効かなかった。
8時間かかって宮崎の家に到着。
ゲージを開けたとたん逃走。
それから二度と、私たちは菊ちゃんと会うことはなかった。
しかし一緒に連れてきた6匹は、菊ちゃんがどこにいるか、知っていた。
いつも心配して見にいっていた。
冷たい骸(むくろ)になっても、彼らは会いに行っていた。
ずいぶん後になって、私たちは菊ちゃんが横たわっている場所を知った。
今もそのままにしている。
きっとあちらの世でも、7匹、転げまわるように遊んでいるだろう・・・。
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オリンピックイヤー
- 2008年7月23日 17:46
- 思い出
北京でのオリンピックが近づいている。
真夏の太陽が照りつける、ちょっと動くだけで倒れてしまいそうな時期に、選手も観客も真剣勝負をして大丈夫だろうか。
市川崑監督の『東京オリンピック』を見たら、昔の記憶がよみがえった。
東京オリンピックの開催は10月10日。
世界の"大運動会"にふさわしい、秋の風も爽やかな頃。
日本選手団赤のブレザーの、堂々の行進は、小学校低学年の私も誇らしかった。
競技が始まると、教室におかれたテレビで応援観戦が日課。
どの競技を見たかは忘れたが、テレビが"扉をうやうやしく開けて、ありがたく拝見"するタイプだったのだけは覚えている。
体操の練習を、学校から30分ほどの代々木体育館(かな)に、友だちとそのお母さんたちと見に行きたいと担任に申し出たら、
授業があるにもかかわらず、あっさりとOKとなった。
体育館ぐるりの観客座席から見下ろすと、
平均台やら、マットやら、あん馬やらの道具で、各国の選手が時間を決めて練習をしている。
金メダルをとったベラ・チャスラフスカさんも、しなやかな肉体を躍らせていたのだろうが、
私たちには、なんら関係なし。
国旗をあてっこし、ぺちゃくちゃ4,5人でおしゃべりが楽しかった。
今のオリンピック選手は、なにかサイボーグをイメージさせるが、あの当時は、手の届きそうな人たちだったような気がする。
女子バレーがソ連を破って優勝したとき、父の涙を初めて見た。
「あんなつらい戦争から、もう二度と立ち直れないんじゃないかと思っていたのに、日本が金メダルを取れるまでになれた。
お前たち(私と弟)はいい時代にうまれてよかった」と・・・。
熱狂につつまれた2週間が終わり、
私たちのクラスには、短距離走のスタートについた選手たち横顔の写真入の下敷きだけが残った。
北京オリンピック
小学校の頃と同じ、テレビ応援ですが、
選手の皆さんが日頃の成果を存分に発揮でき、すばらしいドラマを見せてくれること、心から期待しています。
がんばれっ!日本選手っ!
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お魚の値段と夏休みの宿題
- 2008年7月18日 18:01
- 思い出
夫の焼酎のさかなに、刺身はかかせない。
宮崎は、安くて新鮮なお魚が手に入る。
それは、漁師さんたちのおかげ。
ほんと、ありがたいことです。
なのに、重油の高騰で操業ができないという。
なんとも気の毒な・・・
おそるおそるスーパーに行ったら、たまげるほど値段が上がっているわけではなかった。
刺身ひとパック買っても、なんの足しにもならないでしょうが・・・。
小学校のとき、夏休みの宿題で、魚の値段を毎日調べる、というのを出された。
本を読んで感想文とか、日記を書く、ドリル1冊やりとげる、とかは得意なのだが、
『毎日ひとりで魚屋さんに、買いもしないで行って、値段をメモしてくる』
これほどつらい宿題があろうか!
母は、なじみの魚屋さんの奥さんに話をしてくれた。
あとは行くだけ。
小学生の夏休みの一日は長い。
たらたら過ごしていると、夕方。
「今日はおさかな?」と聞くと
お肉、とつれない返事がかえってくる。
「なんかお魚のおかずにしようよ」というと
ぐずぐずしていないで、早く値段調べてきなさい、
とお金も持たされないで、メモ用紙と鉛筆だけで家をおん出される。
夕方だから、買い物籠下げた奥さんたちが、たくさん店先で魚を吟味している。
その間をぬって、遠慮がちに、背伸びをしたり、しゃがんだりして、魚の名前と値段をメモする。
「何してるの」と声をかけてくるおばさんもいて、
この魚の名前は違うよ、と教えてくれる。
全部書き終わって、魚屋のおくさんにぺこんと頭をさげたら、
濡れた手を前掛けで拭きながら近寄ってきて、「どれ、みせてごらん」とチェック。
「今日はね、仕入れでこの魚が高かったのよ。これは安かったから買って行く人たくさんいたよね」なんて、お客さんたくさんいるのに、にこにこしながら相手をしてくれる。
なんにも買わないのが申し訳なくて、商売のじゃまをしているようでつらくて、早く帰りたくて、なま返事して、飛ぶように家に戻ってきた。
それが毎日。
3日にいっぺんぐらい魚を買ってきて、と母に頼まれる。
そのときは、ほっとして、おちついてメモできる。
今日が最後という日、母がつきそった。
「よくがんばったね。魚のなまえ、たくさん覚えたね」
魚屋のおじさんまで出てきて、ねぎらってくれた。
母は、びっくりするくらいりっぱな刺身の盛り合わせを買った。
2学期提出した魚の値段調べの宿題、
棒グラフにしたら、魚の値段だけでなく、日によって入るものが違うこと、天候にもよること、いろいろな料理方法があること、
たくさんのことを学んでいた・・・。
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こけ
- 2008年5月31日 12:46
- 思い出
ひとをこけにして、のこけ、ではなく、苔の話。
昨夜のNHKの番組『美の壷』のテーマは苔。
苔寺や盆栽に、幽玄の世界を感じるのは、"苔のありよう"
それで思い出した。
今でこそ、苔のある庭は、風情があると思えるが、
4、5歳のころ、家の庭にびっしりはびこる苔を見て、つるっとすべるし、なんか汚らしいからキレイにしなくっちゃと思い立ち、一日かけて、ちっちゃいスコップで、せっせせっせと剥いで、庭の隅に積み上げた。
夕方、庭を見た祖父は仰天!
丹精込めて、長い年月かけて、はえさせていた苔だったのだろう。
誰がやったんだっ!と、ゆげが立つほど怒っている顔は覚えている。
その視線は母から私に・・・とたんに、表情がゆるんだ。
というより、怒るに怒れない、といった困惑した目に変わった。
次の瞬間、怒りが祖父から母に移り、
「なんでそんなことしたのっ!謝りなさいっ!」
どかんと雷が落ちた。
その声に、赤ん坊の弟はけたたましく泣き出し、
誉めてもらえると思っていたのに叱られた私は、ひっくひっくと泣きながら謝まり、
そこに、ままままと祖母と父が間に割って入って・・・
それからのことは覚えていない。
でも、翌日、庭はもとのとおりになっていた。
苔は、じけじけしたところを好むと思っていたが、太陽のさんさんと降りそそぐ光と水分が必須だそうだ。
太陽と水が大好きなのは、芝生も雑草の同じ。
我が家の庭、三者共存。
というより、苔が一番負けてる。
幽玄の世界には程遠い、ほったらかしの世界が存在している・・・。
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20歳の貧乏旅行
- 2008年4月 1日 18:34
- 思い出
初めて海外旅行に行ったのは、20歳の夏休み。
バイト先の奥さんと意気投合して、5万円で3泊4日香港マカオ全食事付!の広告を見せられ、
「いいなあ、行ってみたいなあ」とつぶやいたら、あれよあれよという間に話は進み、気がついたら、香港に立っていた。
30人ぐらいのツアーは、あやしげなおじさんやらおばさんがいっぱい。
あとで気がついたのだが、宝石を買いにいくツアーだったらしい。
タワービルの天辺の一室や、路地裏の宝石屋さんに連れて行かれるが、お金も持っていない、何の感心もなさそうなおねーさんなんか、声もかけてもらえない。
旅行社の手違いで、思いっきり広い部屋にひとりで泊まることになった。
免税店なるところに連れて行ってもらって、世には"ブランドもの"というのが存在するんだということを初めて知った。
飲茶は、珍しくておいしくて、これでもかと胃袋につめこんだ。
どんな格好をしていったらいいかもわからず、ジーンズのオーバーオールを着ていたら、マカオのカジノで「あんた16歳だからダメっ!」って入れてもらえなかった。
じゃあってんで、ワンピースを着て、サンローランのサングラスを買ってかけたら、「マフィアのおねーさん」と言われた。
夜の食事の席で、「あんた大学生だから、英語で注文してよ」と言われたが、全然通じない。
ガイドさんの「ここではいろいろな国の女の人と遊べます。お望みのかたはあとで私のお部屋にきてね」と流暢な日本語には、純情可憐な私は仰天した。
当時の定番の土産、洋酒3本、タバコ何カートンか、そのほか祖母と母と弟にお菓子で、持って行った小遣い3万円はすべて消えた。
羽田に夜遅くついた上、税関を通過するまで時間がかかるだろうと計算して、お迎えに着てね、と頼んでいた彼氏(今のダーリン)は待てど暮らせど、来ない。
羽田はどんどん人が減っていって、シャッターが降りはじめ、とうとう私ひとりとなり、涙がでかかったとき、やっと迎えが到着した。
結構つらいことずくしの、怒涛の"ど貧乏"海外旅行だったが、あの時、行ってよかったなあと思ってる。
英語が通じなかったくやしさ、28歳から取り戻しはじめたんだから・・・。
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ひな祭りの思い出
- 2008年3月 3日 18:56
- 思い出
今日はひな祭り。
実家に置きっぱなしの"正式のひな壇"にかざるお人形さんの顔は、神経質で、どことなく怖く、好きではない。
小学校1年生の3月3日、そのお雛様を飾り、母の作ったばら寿司で、家族が食卓を囲んでいた。
少し前から風邪気味の祖父は、あまり体調がよくないのに、夕食後、お風呂に入った。
祖父の咳き込む声を夢うつつで聞きながら、私と弟は眠りの海へ・・・。
翌日、目がさめたときは、祖父は亡くなっていた。
気がついたら、緋毛氈が敷かれていたひな壇は、白黒の幕で覆われた葬儀の祭壇に、ピンクの桃の花が白い菊の花に変わっていた。
それから何年も、そのお雛様は出してもらえなかった。
飾らないとお嫁にいけなくなるんだって、といっても、縁起が悪いから、と言って、しまったっきり。
出さなくて、虫食って、なお怖い顔になったらどうするのよ、と言っても、いいのいいのと母は出そうとはしなかった。
夫と付き合いだして、雛人形は毎年、卵で作っていた。
卵に絵を書いて、千代紙でおべべを着せて。
私が作るのを忘れていると、彼は今年は作らないのか、とせがんだ。
何年か前、姑あらんだまばーちゃんが、得意の木目込み人形で一対の雛人形を作ってくれた。
それがこの写真。
お雛様の腰あたりに使っている生地は、今はたいそう貴重品になっているそうだ。
1年にこの1ヶ月だけ、床の間に登場する、お雛様。
私は、これが一番すきだな・・・。
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真冬のナナハン
- 2008年2月 9日 16:17
- 思い出
関東地方は、今日はものすごく冷え込んでいるらしい。
今日は寒くはあるが、事務所のなかはストーブもつけていない。
南国宮崎は、冬はつくづく住みやすいところだと思う。
まだ結婚したばかりのころ、住まいは世田谷区の隣、狛江市にあった。
ちょうど今頃の時期、夜巣鴨の実家から帰ろうとしたら、弟がバイクでおくってやる、という。
別に何も考えないで、じゃ頼むね。
玄関の脇にあるバイクを見たら、やけに車高が高い。ナナハンだった。
免許とりたて、バイトしてバイク買ったばかりの弟は、どこでもいいから乗りたかったらしい。
背が190センチぐらいある彼は、まるで50ccに跨ぐようにひょいと乗った。
私が原付バイクの試験を受けたとき、1つだけまちがえた問題。
「バイクは足をひろげて乗っていいか?」
いつも弟は50ccを足をひろげて乗っていた。
だから、自信持って、○!
答えは、×。
彼の場合、ひろげないと乗れなかったのだ。
実家の母からわんさと持たされた食料品をかかえ、後によっちらと乗って出発。
動き出して5分もたたないうちに、重大なことに気がついた。
風を切って走ると、ものすごく寒いのだ。
「やっぱ、電車で帰るっ」と、がっちりかぶったフルフェイスのヘルメットに向かって怒鳴ったが聞こえない。
それから45分、フェイスカバーのないヘルメットをかぶった私の顔はがちがちに凍りつき、安定の悪い荷物を落さないようにしつつ、カーブでそんな傾けないでよ、とかっこつけて走る弟に必死でしがみついていた。
我が家の玄関につくやいなや、ひょいと下りた弟は
「やっぱ冬は寒いね。お風呂焚いてよ。今夜は泊まっていい?」
おねえちゃんは、冷凍庫でかちんかちんに固まっている食料品のようになっていて、バイクから降りられませんでした・・・。
だから言ったでしょ!
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ピアノの上のクリスマス
- 2007年12月22日 07:51
- 思い出

高校1年のとき、ピアノの先生を替えた。
そのころ60歳に手が届くぐらいだっただろうか。
手だけ見ると男の人顔負けのごつさなのに、夏でも冬でも花柄のかわいいブラウス、裸足で真っ赤なペティキュアをしていらした。
海外と取引をされている会社の社長さんがご主人だったからか、それとも昔ピアニストだったからか、毎年夏休み1ヶ月はほとんどヨーロッパで過ごされる。そして敬虔なクリスチャンだった。
習い出して初めての12月。
レッスン室に入ったら、でーんと部屋の真ん中においてあるグランドピアノの上に、ところ狭しと何かきれいな色のものがのっている。
近づいてみると、クリスマスカード。封をあけて、カードの文がよく見えるように置いてある。もっとよく見ると、いろいろな国の言葉で書かれていた。
「先生のお知り合いからですか?」
少しも嫌味なところなく、うふふ、と笑いながら
「すてきでしょ。カードをいただくと、お元気なのねって思うの」
今年5月に買った私のグランドピアノ。置いてあるのは小さなクリスマスツリー。これを置きながら、ちょっとうきうきした気持ちの、昭和40年代ヨーロッパが遠かった時代の、12月のレッスンを思い出した。
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雪の日の下校
- 2007年12月 7日 08:09
- 思い出
昨日のコメントに、あいさんから新潟は雪景色とあった。
雪かあ・・・
小学校のころ、雪がかなり降り出すと、ほとんどの生徒が電車やバスで通学していたので、授業が切り上げられた。
授業がなくなって早く家に帰れることも、雪が降っていることも嬉しくて、いつもはぐずぐず教室に残っているのに、さっさと帰り支度をして学校を出る。
3,4年生の時だったか、粉雪がかなり降りしきる中バス停に並んでいたが、一向バスが来る気配がない。次のバス停まで歩こうよ、ということになり、友達7,8人で歩き出した。
次のバス停までの道中は、おしゃべりと雪で楽しくて、また次のバス停までいこうという。
その次のバス停まで、その次のバス停まで・・・と、のろのろ運転のバスが来ているのを横目に、結局終点の大塚駅まで、子犬たちが転げるように、ころころ笑いながら歩いてしまった。
学校を出て1時間半ぐらいかかっただろうか。
大塚駅について、さて山手線に乗り換えてと思ったら、雪のため運休!
バスは動いていたのに乗らなかった。山手線は疲れてもう歩きたくないのに動いていない。
私と同じ次の巣鴨駅まで一緒なのは友だちひとり。
家に電話したら「歩いて帰ってらっしゃい」と母にあっさり言われた。
大塚駅から巣鴨方面へは、かなり長く勾配のきつい上り坂がある。歩けるのだろうか・・・。
傘はさしてもほとんど役にたたず、制帽にもオーバーにもランドセルにも雪がつもり、手袋も長靴のなかもべちゃべちゃ。
それまでとはうってかわって、むっつり黙りこくって、ふたりで歩き出した・・・。
何度ころんだことか。足先や鼻先は感覚がなくなっている。雪がちっとも楽しくなくなった。
「じゃね、ばいばい」と、友だちとも分かれ、誰も足を踏み入れていない新雪の道にさしかかったとき、足がもつれて、ばったりうつぶせに倒れた。
もうじき家なのに、起き上がる気力もない。
ちゃんとバスに乗っていれば、今頃こたつで祖母とみかんを食べるだろうに、なんてばかなことしたんだろう。
雪に顔をうずめたまま声を出して泣いたが、声や音は雪が吸収し聞こえない・・・。
・・・やっとのことで家についたとき、母は雪だるまが立っているかと思ったそうだ。
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彼岸花と学芸会
- 2007年9月29日 07:19
- 思い出

宮崎は、まだまだ昼間は真夏の太陽が照り付けているが、植物は季節を忘れないんだなと、つくづく思う。
あちこちの道端で見かけるようになった彼岸花。赤や白、中には黄色みがかったのもある。
文字通り”お彼岸の花”だから、墓参りにいくと、彼岸花が生けてあるのが目に付く。
しかし舅は、彼岸花を仏壇や墓に供えるのを嫌った。理由はよくわからない。あの世に行ったらぎょっさんの彼岸花に迎えられるからと思ったのか・・・。だから、あらんだま一族の仏さん関係に彼岸花はない。

小学校高学年のころ、学芸会で、劇をやることになった。
題名も内容も覚えていないが、舞台の上で演ずるには、一番遠いところにいるはずの、いしかわじゅんくんを、担任のまえだきょうこ先生が主役級に選び、彼が、なぜか赤い彼岸花を食べ、おなかをこわすというシーンがあった。
どきどきものの本番の日、彼は見事に演じきった!
なんで私が選ばれないという不満はふっとび、人は見かけによらないことを思い知り、まえだ先生の眼力に感服した瞬間だった。
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お彼岸
- 2007年9月25日 07:05
- 思い出

我が家の隣家は姑あらんだまばーちゃんの生家であり、近くに一族のお墓があるので、姑は節目節目の行事には必ず、兄弟たちと訪ねてくる。
その昔、まだ舅あらんだまじーちゃんが元気なころは、二人で軽乗用車に乗ってきた。
舅は、小学校の校長を退職してから、運転免許をとった。運転していくところは決まっていて、近くに嫁いだ娘の家と、車で30分ぐらいの妻の実家。
ある秋の彼岸の日、舅はいつものように妻を助手席にのせて、墓参りに来た。
もう少しで行き着くという手前にある急な坂道で、車はエンストした。
舅は若葉マーク。妻は免許なし。周りに人もいない。
「んんん~」と考え込んだ夫に、妻は「どうなさったとですか?」
「んんん~、動かん・・・」 妻はにこにこしながら「私が後ろから押しましょか?」
「うにゃ、それはいい。それより”(車の)仕様書”を取ってくれ。読むから」
私が運転して姑たちと墓参りにいくとき、そのエンストした坂を通る。そして、いつもこの会話を思い出す。
苦虫をかみつぶしたような顔をしていたであろう舅と、どんなことも動じない姑のコンビは、どのようにしてその苦難を脱したのだろうか・・・。
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宮崎の2段と東京の2段
- 2007年9月20日 07:15
- 思い出

宮崎市出身の夫も、東京都出身の私も、剣道2段を持っている。
彼は中学から。柔道部に入ろうと行ったら、練習で稽古着がはだけるのがわかった。それがいやで隣で稽古していた剣道部に入った(らしい)。
めきめきと頭角を現し、高校までお勉強の方は横に置いて、剣道一筋の毎日だった。数々の賞状やらトロフィーやらが物語っている。試合は常に真剣で、常に優勝することだけを目指していた。
私が剣道を始めたのは高校に入ってから。
チームは公式試合で1回戦負けは当たり前。早く負けて、女子部員が作ってきた豪華なピクニック弁当を食べるのがなにより楽しみという、部員は多いが、軟弱きわまりない剣道部だった。
だから剣道に対する考え方が根本的に違う。宮崎の2段は相手をとことん研究し、どうやったら勝てるか作戦を練り上げる。
東京の2段は、なんにも考えないで「め~ん」って撃っていって「こてっ!」とやられて、「弁当だべんと」と、いそいそ帰ってくる。
大学で"試合に勝つ”剣道を初めてみて、世の中に試合に勝つ人がいるんだと、私は目を瞠った。
彼は、これほどへたくそな2段見たの、初めてだった・・・。
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月夜の猫
- 2007年9月12日 07:12
- 思い出

まだピアノ講師をやっていたころ、ゲットした理由は定かではないが、臨時収入が8万円ほどあり、毎日何に使おうかなと、にまにましながら考えていた。
ある夜、仕事が終わり、いつものように、伊勢原駅で電車をおり、愛用の自転車に乗り換えた。
帰り道の左右はどこまでも広がる田んぼ。稲刈りを終えた香ばしい中を、めいっぱいペダルを踏み、満月を仰ぎながら、25分のサイクリングは、けっこう楽しい。
ふと左前方に目をやると、土の見えた田んぼから動くものがある。
猫だ。弾むように、道にむかって走ってきている。しなやかでリズミカルな動きがなんともいえず小気味いい。
私のはるか前を猫が横切ろうとした瞬間、自転車を追い越していった車が撥ねた!猫は、まりのようにぽーんと飛んで、道の反対側に落ちた。月はそのすべてを明るく照らしていた。
車は何事もなかったように、スピードも落さず走っていった。
身体が凍った。どうしよう・・・助けようか・・・死んでいたらどうしよう・・・
・・・私は自転車を止めることができなかった。振り返ることもできず、夢中で自転車をこぎ家に帰ったが、意識はあの時で止まってしまった・・・。
翌日、たまたま仕事が休みだった夫が、車で私を伊勢原駅まで送っていってくれた。
死んだ猫の脇を通るのか・・・気が重かった。
「このへんなの」と言ったあたりに、小学生が何人か集まって地面を見ていた。
夫が車を止め、降りていくと、道端で猫が横になったまま、首を持ち上げ、きょろきょろしている。
生きていたんだ!
「お願い、この子、病院に連れて行ってよ」
1週間後、退院してきた猫は、幸いにも骨折もなく、打撲のみ。撥ねられたあたりに置いてくるわけにもいかず、連れた帰った。
うちの大勢の猫にも動じず、敷いてやったクッションに、当たり前のようにゆったり身を横たえた。その様、アラビアの王様サルタン。つけた名前が”サルタンとら坊”
それから2ヶ月ほど我が家で養生し、彼は出て行った。
臨時収入の8万円、サルタンとら坊に全部使い果たした・・・。
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タッタカタッタッター
- 2007年8月20日 08:37
- 思い出
20年近く前、平塚市に一軒家を購入して引越しの日、庭の前の道に、茶色いかわいい猫がちぢこまっていた。
近寄ってみると、大きさは子猫より少しおおきいが、雰囲気は"練れた”感じがする。目が寄っていた。夫と即座につけた名前がよりめ。
「よりめちゃん、おばちゃんちは5匹にゃんこを連れてお引越ししてきたの。皆と仲良くしてねっ!」
1階の庭側の戸に猫ドアをつけたら、うちの猫たちは、近所のおともだちを連れてくるようになった。知らない顔がいつの間にか増えている。よりめは、隣の猫で、奥さんが妊娠したら家に入れてもらえなくなり、半分我が家の住人になっていた。ただ、身体が弱いらしく、あまり動かないしご飯も食べない。
ある水曜日、仕事に出かける前にアイロンをかけていたら、パタンと猫ドアが開き、勢いよく、よりめが飛び込んできた。しばらく家に来ていなかったので心配していたが、しっかりした足取りで、タッタカタッタッターと開けっ放しししてあった玄関まで、まっすぐ前を向いて、一直線に走り抜けていった。入院でもして元気になったのかな、と思った。
週末、隣の奥さんと会った。
「うちにいた猫ね、死んだの」えっ!いつ?
「この前の火曜日」えっ?水曜日うちに来たよ。元気よく、走り抜けていったから、よかったって思ったのよ
「ずーっと具合が悪くて、動けなかったの・・・眠るように死んだよ・・・」
ふたりで顔を見合わせ、しばらくお互いの言葉をさくぐりあった。
「・・・きっと、あらんだまさんに、ありがとって言いにきたのよ・・・」
・・・そうね、幻じゃなくて、きっとそう・・・。
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おめでとうパーティー
- 2007年7月22日 07:39
- 思い出

アメリカに行ったのは、姑あらんだまばーちゃんのおいの結婚祝いが目的だった。
お嫁さんになるれあちゃんの子供の時の写真を見たら、針金のように細い。彼女のママの写真を見たら・・・ハグしたら、背中で手と手がつながるにはあと80センチはいるわね・・・ということは、れあちゃんの未来の姿は・・・今、ママと同じ”ふっくら”になっています。
女性のお友だちや親戚だけを集めた、結婚前のパーティーに、ばーちゃんとめいっこふたりと私の4人がお呼ばれされた。30人ぐらいの気のおけない人たちが集まって、食べたり飲んだり、ゲームしたり、お話したり・・・映画のワンシーンに入ってしまったような気分だった。
ばーちゃんから、れあちゃんへのプレゼントは愛らしい木目込み人形。どのひとも「wonderful!」を連発するので、のりで彼女を人形作りの”先生”と紹介したら(うそです、でもものすごく上手なの)、みんなの驚嘆の的となって、言葉は通じないはずなのに会話が弾んでいた。
結婚で一番大切なものは?というゲームで、大抵のひとは「love」と紙に書いていたが、私は「health」身体も心も健康だと、どんなことも、ふたりで乗り越えていけるからね。
と答えたら、隣にいたブルーネットのきりっとしたおねーさんが「日本人の結婚観について話して」と言った。
はたと困った。入国してから滞りなく会話はできていたが、意見を交換したり、述べ合ったりはしていないのだ。結婚観なんて日本語でも深く考えたことがない。
そのとき分かった。
海外に出たら、私は日本人の代表。だから、日本のことをきちんと分かって、自分の頭で考え、まずは日本語でしゃべれるようにしておかなくてはいけない。そして、私の英語力は旅行用にすぎない、と・・・。
あっという間の2週間が過ぎ、蒸し風呂のような日本に着いて聞いた最初のニュースは、モスクワでクーデターが起こり、ゴルバチョフ大統領が拘束されていた。夢のような日々がすうーっと遠のいた・・・。
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自由の女神の内っかわ
- 2007年7月20日 07:49
- 思い出

ニューヨークに向かう道すがら、恐ろしい顔をした人形の看板が立っている。「”がもじん”じゃ」とばーちゃんが言うと、めいっこたちやおばは、げらげら笑っている。
その広告は、映画『チャイルドプレイ』の主人公チャッキー。宮崎でおばけのような怖いものをいうとき”がもじん”というそうだ。めいたちは、小さいときなかなか寝ないと「がもじんが出るよ」とばーちゃんに脅かされたらしい。
中学2年のめぐとおばは、食べたものが合わなかったらしく、調子が良くない。せっかく自由の女神のところに行く船に乗ったのに、船酔いも手伝って、公園のベンチで待っているという。
「自由の女神って大阪城みたいよね」とばーちゃんが言う。ん~土産屋あたりはいずこも同じか・・・。
夏休みだったこともあり、中に入ったらごったがえしている。列に並んだが遅々として進まない。
ばーちゃんがごそごそバックの中をさぐって、取り出した折り紙で鶴を作り出した。周りの外人さんたち(私たちが外人さんか)が興味津々、彼女の手先を見ている。覗き込むように見ていた近くの金髪の女の子に「バード」と言ってプレゼントしたら、隣にいたお母さんが「thank you!」とにこにこ。
おじもあやかも私も、折り紙でいろいろ折ったり、作り方を教えたり・・・いつの間にか女神様の頭のなかに来ていた。
見下ろしたら、めぐとおばがベンチに座っていた。
遠くを見たら、東京と変わらない高層ビルの街が見えた。
空を見たら、日本の空の色と変わらなかった・・・。
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アメリカ東海岸へ
- 2007年7月18日 07:36
- 思い出

オハイオ州の首都コロンバスに住む姑あらんだまばーちゃんの妹は、宮城県出身のひとと大阪で知り合い結婚、まだ幼かった息子3人つれて、アメリカに渡った。当時は英語もしゃべれず、自動車免許もなく、子供の手をひいて、遠くのスーパーまで買い物に行ったという。
どんな苦労を重ねて、敷地の端が見えないような大きな工場を持つまで至ったかは想像もつかないが、遊びに行った家の中で迷子になったというのは、後にも先にもあそこの家だけだ。
ツアーで行ったのではないので、スケジュールはお任せ。まあそのへんを見学するんだろうぐらいしか思っていなかった。そしたら、ワシントンDCとニューヨークとカナダ・ナイアガラまで連れて行ってあげるという!
朝6時前に、おじ、おば、ばーちゃん、めいふたりと私の6人で車に乗り込み出発。高速道路に乗ってすいすい東へ。途中で「運転してみる?」といわれたが、曲がるとき反対車線に入ったらたいへんなので、お断りした。
昼にワシントンDC着。ケネディー大統領の眠るアーリントン国立墓地から始まり、リンカーン記念堂、ホワイトハウス、国会議事堂、スミソニアン博物館と、自分がここにいるのが夢のようだった。
そのころケヴィン・コスナーに嵌まっていたので、とうもろこし畑を通り過ぎれば、アイオワではないのに「フィールド・オブ・ドリームス」を思ったり、アーリントン墓地では「JFK」を思ったり、どこかで出くわすかと思ったり・・・。
ばーちゃんが耳元でささやいた。「アメリカって映画に出てくるような美男美女ばかりかと思っていたら、違うんだねえ。何を食べたらこうなるのっていうくらい、ふくらんだ人いっぱいいるよねえ」
そうおっしゃるばーちゃんも決してほっそりじゃありませんが、私たちの目の前を、ばーちゃんを2.5倍にしたぐらいのおねーさんが、同じ大きさのおにーさんとお手手つないで歩いてきて、ピックアップに乗り込むところだった。ふたりが乗ったとたん、どんと車が沈んだ・・・。
また今日もニューヨークまで行き着かなかった・・・。
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手荷物
- 2007年7月15日 07:00
- 思い出

先日のeもの宮崎コミュニティーサイトにある友好BLOGにシュークリームママさんが、今は無きニューヨークツインビルをバックにした写真を載せておられた。
実は私もあります。
16、7年前にもなるだろうか、オハイオ州コロンバスで会社を経営している姑あらんだまばーちゃんの妹夫婦を尋ねて、ばーちゃんと、あのころ高校1年生と中学2年生のめいと4人で、2週間ほどの予定でアメリカに向かった。
それまで海外旅行をしたことはあっても、個人で出国するのは初めて。不安もあったが、けっこうばりばり英語を勉強していた時期なので、内心”腕試し”とちょっとわくわくしていた。
成田の税関は問題なく通過。長い時間のフライトなので、あらんだまばーちゃんは通路の後ろの方でラジオ体操をしばしばやって、外人さんに胡散臭い目で見られているが、まあこれもよし。
やっとこさ着いたコロンバス空港。荷物検査で「食べ物はかばんに入っていますか?」と聞かれた。ばーちゃんに「・・・っていってるよ」と言ったら、彼女「持ってます!」とそのおじさんに、にこっと笑いかけた。
思わずぎょっとして、何持って来たのよと言いかけたら、こっちにいらっしゃいと、別室にお呼ばれされた。別の列に並んでいためいっこふたりも、違う部屋に消えた。
ばーちゃんがかばんを開けたら・・・梅干、つけもの、らっきょう、あくまき、にんにくのしょうゆ漬け、干し大根、味噌漬け、塩こんぶ、なんかわからん煮物・・・とでるわでるわ・・・。どうして出国するときなんにも言われなかったんだろう?ばーさんだったからかな?得々としてすべてのビニール袋をあけたら、日本人でも、こりゃなんじゃいという臭いが部屋中に充満した。
なんでこんなに持ってきたのよと言いかけたら、担当のおじさん、梅干を指差し、これは何か、どうやって作るのかと聞く。「・・・っていってるよ」と言ったら、ばーちゃん嬉しそうに、6月に自分の実家の梅の木から梅の実をちぎって、から解説しだした。それを延々通訳・・・。最後に「おいしいよ」といって口にひとつ梅干を放りこみ、「うーすっぱいっ!あなたも食べない?」と言ったら、もうけっこうと言われた。
別室から出てくると、隣の部屋からめいっこふたり、半べそかいて出てきた。彼女たちはチョコとガムだけだったが、学校で習った英語が通じなかったらしい。
「学校の先生の英語はなまっちょる!」なまっちょるって、どうなまってるのよ?
「宮崎弁の英語だあ~」???
この珍道中、先が長くてニューヨークまでたどりつけそうもない。本日これまで!
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パワーボートを操縦したい
- 2007年7月10日 07:14
- 思い出
7月、夏だ。夏といえば海。海といえばパワーボート・・・。
今を去ること20年以上前、東京12チャンネルでアメリカのテレビドラマ『マイアミ・バイス』をやっていた。去年だか映画化されたが、その本家本元バージョン。
主演のドン・ジョンソン演ずるソニー・クリケットはおまわりさん。袖をめくり上げ、はだしのところは、亀有派出所の両さんと変わらないのに、マイアミのおまわりさんは頭に”潜入”とつくだけで、アルマーニを着こなし、フェラーリを乗り回し、14インチのテレビの中でパワーボートを自在に操り、もうそりゃそりゃカッコいいのよ。
夕飯食べながら横で一緒に見ている夫に、それを望むべくもなく・・・なんか、あんなカッコいいことに近づきたい、と考えた。
そうだ!あのパワーボートを操縦しよっ!「あのな、あの船でベンツ二台買えるぞ」・・・まっ、それは免許とってから考えることにして・・・
4級船舶の筆記試験は覚えればいいのだからノープロブレム。問題は実技。
実技試験の前に3時間だけ、海上でボートを操船実習がある。
相模川河口での講習。ぶんぶんジェットスキーが走り回っていた。うわさではあのなかに、60歳の元気なおばちゃんがいるそうだ。私もがんばらにゃ!
先生は、子供のころ九十九里浜の地引網で、タオルを頭にまいていた漁師さんにそっくりなおじさん。この人が、怖かった。当然ですが、3時間で操舵を教えようってんだから、そりゃ厳しくなります。
私はのみこみが悪く、海上で静止できず、くるくる。人命救助にいったら、助けなくてはいけない人の頭を船でがつ~ん。接岸もおもいっきりどっか~ん。ロープのもやい結びも、なんだかこんがらかってわからん・・・。
半べそ状態で3時間の講習を終え、船を下りたとき、試験を受けるのやめようと固く決めた。
2度と来るかと帰り支度をしていたら、先生が近づいてきた。「午後、ひとり来なくなったから、あと3時間練習してみないかい?料金はいらないよ」・・・先生の目はがんばれと言っていた。
午後の練習、相変わらず先生の指導は厳しかったけど、午前中よりは、まだ思うように動かせるようになっていた。いけるかもしれない・・・。
講習終わって、スクールの担当が「あの先生は、全世界まわっている優秀な船乗りで、毎日日記を英語で書いているんだよ」・・・私は目が点になった!あの頭にタオルまいているおっちゃんが!人を外見で判断してはいけません・・・。
試験場所は鎌倉海岸。試験官から、ペットボトルが浮いているのは、魚網の印なので、その上は通り抜けないようにとの注意も、すっかりあがって真ん中を堂々と通りぬけましたが、なんとか無事合格!
でも、一回もパワーボートどころかジェットスキーも運転することなく、免許をおととし返上しました・・・。
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オクラとゴリ
- 2007年6月28日 08:37
- 思い出
オクラに初めて出会ったのは大学1年の夏休み、長崎のおばの家に遊びに行ったときだ。
夕飯の買い物に行ったやおやさんで、ざるにてんこ盛りになっている奇妙な野菜があった。4色ボールペンほどの太さ。長さはその1.5倍ぐらい。彼女は100円ばかり出して一山袋に入れてもらった。それがオクラだった。当時私の住んでいた東京の一角では見たことがなかった。
帰り道、そそっかしいおばは、オクラと一緒に買った卵10個を落とし、全部割った。
晩のおかずは急遽変更して、バターでいためたオクラの山と卵10個分。糸をひいていたので、卵がくさっていたんじゃないかと思ったら、それはオクラのねばねば。この”豪快”な料理の量にはへき易したが、オクラの味はきらいじゃなかった。
大学2年の夏休み、宮崎に初めてきた。
泊まった家のおばちゃん(現姑あらんだまばーちゃん)が、夕食になすの味噌いためをつくった。
「おいしいよ、食べてごらん」なすの紫色に見え隠れして、緑色のいぼいぼしたのがあったが、何も考えずに口に入れた。しばらくすると、口の中に、強烈な苦味が広がった!
周りを見ると、ちゃぶ台を囲んでいる私以外の全員が注視している。謹厳居士のおじちゃん(故舅あらんだまじーちゃん)も嬉しそうに、私のリアクションを見ている。口から出すわけにもいかず、ごっくんと音を立てて飲み込むと、皆声を上げて笑った。
それが、ゴリ(ゴーヤ)とのはじめての出会い。昔のゴリは今のと種類が違うのか、実ににががった。焼酎のさかなには、あぶって、少し焦げ目をつけたのを、ちょっとしょうゆにつけて食べるのがいいらしい。
当然、当時、東京の私の家の周りでは見たことがなかった。
宮崎に越してきてからも、最初の印象が強烈だったので、すききらいのない私の唯一といっていい、食べられないものだったが、どの家の畑や庭にゴリは植えてある。ほったらかしていても、夏の盛り、あのいぼいぼの”実”が次々とぶらさがる。
ある夏、スライスしてドレッシングをかけて食べたら、さっぱりしておいしかった。暑気払いとして、この苦味が利くんだと初めて分かった。
これからはじまる強烈な南国の日差しのもと、オクラとゴリの出番です。
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ドリアンは証拠を残す
- 2007年5月23日 07:44
- 思い出
昨夜BSで放送していた、フィリピン映画『母と娘』の食卓に、ドリアンらしきどーんとした塊がのっていた。あちらの方では普通に食べるものなのかな・・・。
ずーっと前、社員&家族旅行で香港に行った。
私たちの家族参加は、姑あらんだまばーちゃん。彼女は”好奇心”が服着て、つんのめって歩いているほど、何事にも興味しんしん。
しこたま中華料理の堪能して、さてホテルに帰って寝るだけと歩いていたら、果物屋さんがあって、南国の見慣れないフルーツがいろいろおいてある。下向くと食べたものが出てきそうなくらい満腹だったので、”ひやかし”のつもりでばーちゃんと吟味していた。
「あれなに?」と指差すほうを見ると、いぼいぼの緑のかたまり・・・ドリアン。値段は6000円ぐらい。日本でそのころ買ったら1万円ぐらいだから、安いっちゃあ安い。
「ものすごい臭いと味だけど、やみつきになったら、はまるんだって」と人から聞いたとおりに答えた。言ってから、なんかいや~な予感がした。きらっと目を輝かしたばーちゃん「食べよう!」
確かホテルに”ドリアン持込禁止”と書いてあった。
「大丈夫大丈夫!」って、いったい何が大丈夫か分からないが、好奇心には勝てず(私もか)、6000円はたいて、袋にしのばせ、こっそり部屋に持って帰った。一緒に来ている人たちの部屋に電話したら、二人だけいた。「ドリアン、食べない?」「食べるっ!(どんなものか全然わかっていない)」
ナイフは部屋にやってきた子が、みやげで買ったものを持ってきた。
注目のなか、カット・・・ぱっくん・・・部屋中に流れる異臭と悲鳴!
「窓、窓、窓開けてっ!」「トイレの換気扇まわしてっ!」
各自、スプーンにとって口に入れるとまた悲鳴。その中、泰然として味わっていたのはもちろん”食べよう”と言った本人ただひとり。
繊維感もなく、ふわっとしたやわらかさで、異臭と口慣れない味には閉口したが、まあ”やみつき”にならないこともないか・・・。でも何か口直しがほしい・・・。
「あるよ」と言って、ばーちゃんがいつも持ち歩いている黒い袋から、おもむろに取り出したのは”ようかん”。そんなもん持って来てたの?
お腹がいっぱいで、目と胃袋は欲しがっていないのだが、舌がまっとうな味を欲しがっていた。ついでに流し込む何かないか・・・と思っていたら、またごそごそ袋を探って取り出したのが、ティーバッグの緑茶。用意周到というか、旅慣れているというか・・・恐れ入りました・・・。
口直しが終わって、我にかえったら・・・この異臭の中で寝るなんて到底できない。なんとか”始末”せにゃ。
「フロント前のトイレに捨てたら、ホテルの人がなんとかしてくれるよ」まったく悪いことを考えつくものだ。
・・・で、そのとおりしました。・・・でもちょっと不安・・・。
10分後、犯人は再び”犯行現場”に行く・・・。
ないっ!臭いもうっすらある程度!いつわかったんだろう?
翌早朝ホテルを後にしたが、きっと”ドリアン捨て犯人”わかっちゃたよね~。ホテルのみなさん、本当にごめんなさい・・・。
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笑いガス
- 2007年4月22日 09:36
- 思い出

4月22日は結婚記念日。
あの日は、朝起きたときから笑いガスが私たちに充満していた。
宮崎のホテルの一室で、花嫁支度はお化粧から始まった。
生まれて初めてつけまつげをつけた。上まぶたが重くなって、目が開かない。そこへ夫(まだか)が入ってきて、背後から何か言った。「なに?」と振り返って見ようとしたが、目の前真っ暗。目が開いていないんだと、つけまつげを指でつまんで持ち上げ、夫と目があったとたん、二人で噴出してしまった。
文金高島田のお飾りを束ねてあるリングを取ったら、ぱっと開いたのが、これまたおかしくて、二人でゲラゲラ。涙でマスカラがにじみ、厚化粧の目元と口元にしわがよって、化粧はやり直し。
そんな状態で式が始まった。
厳かな神主さんの言葉も、なぜかおかしみを持って聞こえてしまう。悲しいことを考えて気を静めようとするが、くくくく・・・と笑いガスが体の中をめぐっている。隣の新郎も、懸命に笑いをこらえていた。
誓いの言葉を書いた封書を渡された。包んであった和紙を夫が落した。「あっ、落ちた・・・」彼がつぶやいたとたん、わあっと笑いガスがはじけてしまった。
読み上げる夫の声が震えている。感動でではない。笑いをこらえるのに必死なのだ。
指輪の交換も、杯を交わすのも、目を合わせたら厳粛な式を自分たちでぶち壊しかねない。
笑いガスと戦い続けた”つらい”結婚式だった。
それ以来、笑いじわは深く刻み込まれ続けている。
田辺聖子さんも言っていた。『人生、笑ってなんぼです』
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佇む影
- 2007年4月19日 07:46
- 思い出
神奈川県平塚市に住んでいたころ、土曜日夜10時ごろになると、四駆仲間が我が家に集まってきた。箱根湯元にある露天風呂に入りに行くのだ。
2台ぐらいに乗りあって、湘南道路(と呼んでいた)を一路西へ。行きは左に漆黒の湘南海岸、小田原あたりから箱根の山を目指す。温泉宿や土産屋を連ねる山道はうねっていて、上のほうから何台もバイクが滑走してくる。車体を倒し、カーブを曲がってくるのだが、反対車線に飛び出してこないか、いつもひやひやしていた。
閉館時間ぎりぎりに露天風呂に着くので、ゆっくり入っている暇はない。お風呂に入りにというより、四駆で夜のドライブが楽しかった。
ある入浴した帰り、夜中の2時近く、車中は私以外男性。別段会話にも加わらずに、窓の外の流れる景色をぼんやり見ていた。海岸線沿いの湘南道路の大磯あたりか、突然闇の中に、明るい2階の窓が浮き上がった。奥から人が出てきた。窓辺に立った。全裸の女性だった・・・。
両腕を上げ、窓のふちを持って、首をかしげ、海の方を見ている・・・。
きっと彼女は自分が見られているなんて思っていないんだろうな。圧倒されるような見事な裸形に、通り過ぎてもその姿を追っていた。
・・・しばらくして「今、裸の女の人が、窓辺に立ってたよ」と言ったら、車中の男ども、騒然となった。
「引き返すぞっ!」といっても、この道は一旦降りないと反対車線には行けない。
「ばかっ!なんでもっと早く言わないんだっ!」だってあなたたち、話に夢中だったじゃないの。
「若いのか、ばーさんか、どっちだっ!」・・・まったく!
あの佇む影は、記憶の中でスローモーションの幻になってきた・・・。
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新人の彼女
- 2007年4月 6日 12:51
- 思い出
学生時代聞いていた深夜放送のデスクジョッキーは、アリスの谷村新司やグレープのさだまさし。当時そんなにメジャーというほどでもなかった。だからというわけでもないが、番組主催の彼らフォークグループが出演する無料コンサートは、はがきを出せば必ずといっていいほど当たった。
場所は厚生年金ホールか中野サンプラザか、その日のコンサートはなぜか客の乗りが悪かった。何組か演奏したあと、新人を紹介しますと、薄暗い舞台そでから出てきた女の子は、実に垢抜けてセンスがいい。知らない人だった。歌が始まった。声に響きもないし、全然上手じゃない。でも曲も歌詞も斬新で、度肝を抜かれた。そしてなにより”華”があった。沈滞していた客席はみるみる引き込まれていき、割れるような拍手で終わった。
スカっと輝いていた彼女の名は荒井由美、曲はルージュの伝言・・・
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小学校の帰り道
- 2007年3月28日 07:40
- 思い出
小学校へは山手線大塚駅で降り、当時東京を縦横無尽に走っていた都電に乗り換えて通っていた。都電沿線には幼稚園から大学までたくさんの学校が並んでいたので、電車の中は、様々な制服を着た子供が朝も夕方もぎゅーぎゅー詰めだった。
小学校3年生ぐらいになると、帰り道、都電を大塚駅で降りると、友達と連なってそのまま駅前商店街に入っていく。道順はいつも同じ。甘くおいしそうなにおいを放っているドラ焼きやさんの実演を一通りながめ、パッチン止めの売っている雑貨屋さんの前を通り、ひょうたんもなかやおせんべいの入っているガラスのビンをさわり、小さな映画館が何をやっているかチェックし、やおやさん、さかなやさん、にくやさん、かんぶつやさん、くだものやさん、さかやさん・・・そして、今でもある都電荒川線の線路に出る。
線路の下は大小さまざまな石が敷かれていて、私たちにとっては宝石の山だった。きれいな石をその中から見つけ出す。毎日やっているのに、”宝石”は減らなかった。「危ないからやめなさい」と言われたこともなかった。
制服のポケットを石で膨らませたら、山手線大塚駅の改札に向かう。改札には駅員さんが切符切のはさみをもって構えていて、楕円の改札の台には”きりかす”がたくさん落ちている。駅員さんの「おかえり」に、にこっと笑いながらランドセルからぶら下がっている定期券を見せ、切符のきりかすを”頂戴”し、小銭入れに入れる。次の日には母に石もきりかすも全部捨てられているのに・・・。
山手線で一駅。降りたら友達と三々五々分かれていって、ようやく家にたどりつく。
「ただいまあ」「おかえり。手を洗っておやつたべなさ~い」「は~い」・・・40年も昔のことになってしまった・・・
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映画『ベルサイユのバラ』の悲劇
- 2007年3月22日 07:42
- 思い出
漫画をあまり読まない私が高校時代夢中になったのが『ベルサイユのバラ』.。主人公はマリー・アントワネット、フェルゼン、オスカル、アンドレの4人だが、知る限り同級生はオスカル、アンドレ以外は興味がなかった。
宝塚で『ベルサイユのバラ』が公演されたのもこのころ。お金のない高校生は当然テレビ観演となる。テレビにへばりつくようにして見たが、なんか違うのだ。男装の麗人は宝塚にうってつけの演目だが、歌も踊りもない”まっとうな”『ベルバラ』が見たかった。
・・・すると、外国人俳優を起用して映画が作られるというではないか!映画雑誌『スクリーン』など読み漁って、手分けして情報を仕入れた。勉強の調べ物となると腰が重くなるが、こういうのは実にフットワークがいい。オスカル役の女優さんは初めて見る人だった。綺麗だけどインパクトに欠けた。衣装つければきっと違うさ。アンドレ役の俳優さんも見たことない人。どの角度から見てもハンサムだけど、ありきたりのハンサム。でも演技力は選ばれたくらいだから大丈夫だろう。
この長い話をどう縮めるのか、まるで監督や脚本家になったように皆喧々諤々、真剣に”討議”をした。
テレビでプレミアが放映された。見終えて出てくる人の感動の言葉や涙、原作者池田理代子さんの賛辞、絶対見に行かなくてはいけない!
日曜日の午前中、都合のついた同級生10人ほど、チケットの前売りを手に、池袋サンシャイン近くの映画館に勇んで行った。すでにそこには、同じ年頃の女の子がわいわいつめかけていた。期待に胸をふくらませ、いざ、館内へ!
・・・・・・・・エンディングのタイトルロールもそこそこに、私たちは映画館を後にした。ただ、だまって歩いて・・・「じゃあねえ、バイバ~イ」・・・その後2度と映画『ベルバラ』の話をすることはなかった・・・。
皆心の中で思っていたこと・・・よくあんなストーリーで原作者は許したねっ!プレミアから出てきた人は”桜だったんじゃないのっ!あんな貧弱なオスカルでどうするっ!おまけにぺろっとヌードになんかなっちゃって!なにさっ!!
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梅の図
- 2007年2月13日 14:29
- 思い出

毎年2月になると飾る掛け軸がある。『梅の図』
実家の母から何本か送ってもらったうちのひとつだ。大正時代に描かれた、なんの変哲もない墨絵。だが大きなしみがいくつもある。
第2次大戦の最中、昭和19年ごろだと思う。東京が空襲をうけるというので、祖父母は埼玉県幸手に疎開をした。二人の息子のうち長男は南方ですでに戦死、次男(私の父)は戦地にこそ送られていなかったが、兵隊にとられて不在だった。彼らが疎開先に家財道具として運んだ中に、この『梅の図』もあった。
そこで近くの川が洪水で氾濫し、水に浸かってしみができたと子供のころ聞かされた。でも、もっといろいろなことをこの掛け軸を出して飾るとき、話して聞かせてくれたのではないかと思うのだ。どうしてそこに疎開することになったのか、どうやって運んだのか、どんな生活だったのか、どうやって生計を立てていたのか、何を考えて毎日過ごしていたのか・・・残念なことに思い出せない。語り継いでいかなかったら、この先この国は過去を忘れ怖い方に行ってしまうのではないかと、掛け軸を見つつ思う・・・。
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東京は好きか?
- 2007年2月 3日 18:27
- 思い出
東京文京区で生まれて育った私に「東京は好きか?」と問われたら、答えはNO。
私の故郷東京は変わり果ててしまった。実家の周りのりっぱな庭があった家は、相続税のためマンションや駐車場になり、家の物干しから背伸びをすると富士山が見えていた方向は高層ビルが林のように建ち、地面の下は何層にも地下鉄が走り、買い物籠をぶら下げて毎日行っていた小さな商店は消え、不夜城と化した都会の夜空に星はひとつも見えない。
私のお気に入りの東京は、時間がゆったり流れていた。ごくごく普通の町だった。ごくごく普通の近所付き合いがあり、夏休みは公園でラジオ体操があり、秋祭りで山車を引いて梨をご褒美でもらったり・・・銀座も日本橋も渋谷も必要なものを買いにいく、ごくごく普通の場所だった。
だから今の東京に長くいるのはつらい。用が済むと逃げるように宮崎に帰ってきてしまうのだ。私の東京は、もう心の中にしかない・・・。
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ぺこちゃん
- 2007年1月22日 08:54
- 思い出
姉を病院に見舞った帰り、助手席に乗った姑あらんだまばーちゃんが「昔は東京においしいものいっぱいあったね」???「中村屋のかりんとうでしょ。とらやの羊羹でしょ。せんびきやの果物でしょ。浅草のおこしでしょ。それに不二家のケーキ・・・」姑は若いころ長い間東京に居たので私とはこんな話題で盛り上がる。「今宮崎でも買えるでしょ」と言うと「じゃ(そうね)、どこでも買えるようになったけど、ありがたみもおいしさも違うが・・・。それにしても不二家はどうなったんだろかね・・・」
小さいころ、ケーキを買ってもらえるのは私と弟の誕生日とクリスマスの年3回、巣鴨駅前のぺこちゃんの不二家からだった。父の給料日の後の日曜日、池袋のデパートに入っている”ぺこちゃんレストラン”に連れて行ってもらって、私は必ず”焼きりんご”を注文した。皮付きまるまんまのりんごにかわいらしく生クリームがのっている。不二家はきらきら輝く”ステキなもの”の象徴だった。
そんないとおしい思い出が今回の不祥事で無残に踏みにじられてしまった。消費者だけではない。フランチャイズの経営者の方たちは、何の落ち度もないのに割り切れない気持ちでいっぱいだろう。
宮崎市大島通線沿いに出来た不二家のお店、今は休業していると聞いたが、姑とケーキを買いにいける日が早く来ることを、心から祈っている。
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