思い出の最近のブログ記事

こけ

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苔と芝生と雑草.jpgひとをこけにして、のこけ、ではなく、苔の話。

昨夜のNHKの番組『美の壷』のテーマは苔。
苔寺や盆栽に、幽玄の世界を感じるのは、"苔のありよう"
それで思い出した。

今でこそ、苔のある庭は、風情があると思えるが、
4、5歳のころ、家の庭にびっしりはびこる苔を見て、つるっとすべるし、なんか汚らしいからキレイにしなくっちゃと思い立ち、一日かけて、ちっちゃいスコップで、せっせせっせと剥いで、庭の隅に積み上げた。

夕方、庭を見た祖父は仰天!
丹精込めて、長い年月かけて、はえさせていた苔だったのだろう。

誰がやったんだっ!と、ゆげが立つほど怒っている顔は覚えている。
その視線は母から私に・・・とたんに、表情がゆるんだ。
というより、怒るに怒れない、といった困惑した目に変わった。

次の瞬間、怒りが祖父から母に移り、
「なんでそんなことしたのっ!謝りなさいっ!」
どかんと雷が落ちた。

その声に、赤ん坊の弟はけたたましく泣き出し、
誉めてもらえると思っていたのに叱られた私は、ひっくひっくと泣きながら謝まり、
そこに、ままままと祖母と父が間に割って入って・・・

それからのことは覚えていない。

でも、翌日、庭はもとのとおりになっていた。


苔は、じけじけしたところを好むと思っていたが、太陽のさんさんと降りそそぐ光と水分が必須だそうだ。
太陽と水が大好きなのは、芝生も雑草の同じ。

我が家の庭、三者共存。
というより、苔が一番負けてる。
幽玄の世界には程遠い、ほったらかしの世界が存在している・・・。

20歳の貧乏旅行

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マフィアのおねーさん.jpg初めて海外旅行に行ったのは、20歳の夏休み。

バイト先の奥さんと意気投合して、5万円で3泊4日香港マカオ全食事付!の広告を見せられ、
「いいなあ、行ってみたいなあ」とつぶやいたら、あれよあれよという間に話は進み、気がついたら、香港に立っていた。

30人ぐらいのツアーは、あやしげなおじさんやらおばさんがいっぱい。
あとで気がついたのだが、宝石を買いにいくツアーだったらしい。
タワービルの天辺の一室や、路地裏の宝石屋さんに連れて行かれるが、お金も持っていない、何の感心もなさそうなおねーさんなんか、声もかけてもらえない。

旅行社の手違いで、思いっきり広い部屋にひとりで泊まることになった。

免税店なるところに連れて行ってもらって、世には"ブランドもの"というのが存在するんだということを初めて知った。

飲茶は、珍しくておいしくて、これでもかと胃袋につめこんだ。

どんな格好をしていったらいいかもわからず、ジーンズのオーバーオールを着ていたら、マカオのカジノで「あんた16歳だからダメっ!」って入れてもらえなかった。

じゃあってんで、ワンピースを着て、サンローランのサングラスを買ってかけたら、「マフィアのおねーさん」と言われた。

夜の食事の席で、「あんた大学生だから、英語で注文してよ」と言われたが、全然通じない。

ガイドさんの「ここではいろいろな国の女の人と遊べます。お望みのかたはあとで私のお部屋にきてね」と流暢な日本語には、純情可憐な私は仰天した。

当時の定番の土産、洋酒3本、タバコ何カートンか、そのほか祖母と母と弟にお菓子で、持って行った小遣い3万円はすべて消えた。

羽田に夜遅くついた上、税関を通過するまで時間がかかるだろうと計算して、お迎えに着てね、と頼んでいた彼氏(今のダーリン)は待てど暮らせど、来ない。

羽田はどんどん人が減っていって、シャッターが降りはじめ、とうとう私ひとりとなり、涙がでかかったとき、やっと迎えが到着した。

結構つらいことずくしの、怒涛の"ど貧乏"海外旅行だったが、あの時、行ってよかったなあと思ってる。

英語が通じなかったくやしさ、28歳から取り戻しはじめたんだから・・・。

ひな祭りの思い出

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お雛様.jpg今日はひな祭り。

実家に置きっぱなしの"正式のひな壇"にかざるお人形さんの顔は、神経質で、どことなく怖く、好きではない。

小学校1年生の3月3日、そのお雛様を飾り、母の作ったばら寿司で、家族が食卓を囲んでいた。
少し前から風邪気味の祖父は、あまり体調がよくないのに、夕食後、お風呂に入った。

祖父の咳き込む声を夢うつつで聞きながら、私と弟は眠りの海へ・・・。

翌日、目がさめたときは、祖父は亡くなっていた。

気がついたら、緋毛氈が敷かれていたひな壇は、白黒の幕で覆われた葬儀の祭壇に、ピンクの桃の花が白い菊の花に変わっていた。

それから何年も、そのお雛様は出してもらえなかった。
飾らないとお嫁にいけなくなるんだって、といっても、縁起が悪いから、と言って、しまったっきり。
出さなくて、虫食って、なお怖い顔になったらどうするのよ、と言っても、いいのいいのと母は出そうとはしなかった。


夫と付き合いだして、雛人形は毎年、卵で作っていた。
卵に絵を書いて、千代紙でおべべを着せて。
私が作るのを忘れていると、彼は今年は作らないのか、とせがんだ。


何年か前、姑あらんだまばーちゃんが、得意の木目込み人形で一対の雛人形を作ってくれた。
それがこの写真。
お雛様の腰あたりに使っている生地は、今はたいそう貴重品になっているそうだ。
1年にこの1ヶ月だけ、床の間に登場する、お雛様。
私は、これが一番すきだな・・・。

真冬のナナハン

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関東地方は、今日はものすごく冷え込んでいるらしい。
今日は寒くはあるが、事務所のなかはストーブもつけていない。
南国宮崎は、冬はつくづく住みやすいところだと思う。

まだ結婚したばかりのころ、住まいは世田谷区の隣、狛江市にあった。
ちょうど今頃の時期、夜巣鴨の実家から帰ろうとしたら、弟がバイクでおくってやる、という。
別に何も考えないで、じゃ頼むね。

玄関の脇にあるバイクを見たら、やけに車高が高い。ナナハンだった。
免許とりたて、バイトしてバイク買ったばかりの弟は、どこでもいいから乗りたかったらしい。

背が190センチぐらいある彼は、まるで50ccに跨ぐようにひょいと乗った。

私が原付バイクの試験を受けたとき、1つだけまちがえた問題。
「バイクは足をひろげて乗っていいか?」
いつも弟は50ccを足をひろげて乗っていた。
だから、自信持って、

答えは、×。
彼の場合、ひろげないと乗れなかったのだ。

実家の母からわんさと持たされた食料品をかかえ、後によっちらと乗って出発。
動き出して5分もたたないうちに、重大なことに気がついた。

風を切って走ると、ものすごく寒いのだ。

「やっぱ、電車で帰るっ」と、がっちりかぶったフルフェイスのヘルメットに向かって怒鳴ったが聞こえない。

それから45分、フェイスカバーのないヘルメットをかぶった私の顔はがちがちに凍りつき、安定の悪い荷物を落さないようにしつつ、カーブでそんな傾けないでよ、とかっこつけて走る弟に必死でしがみついていた。

我が家の玄関につくやいなや、ひょいと下りた弟は
「やっぱ冬は寒いね。お風呂焚いてよ。今夜は泊まっていい?」

おねえちゃんは、冷凍庫でかちんかちんに固まっている食料品のようになっていて、バイクから降りられませんでした・・・。
だから言ったでしょ!


ピアノの上のクリスマス

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ピアノの上のクリスマスツリー
高校1年のとき、ピアノの先生を替えた。

そのころ60歳に手が届くぐらいだっただろうか。
手だけ見ると男の人顔負けのごつさなのに、夏でも冬でも花柄のかわいいブラウス、裸足で真っ赤なペティキュアをしていらした。
海外と取引をされている会社の社長さんがご主人だったからか、それとも昔ピアニストだったからか、毎年夏休み1ヶ月はほとんどヨーロッパで過ごされる。そして敬虔なクリスチャンだった。

習い出して初めての12月。
レッスン室に入ったら、でーんと部屋の真ん中においてあるグランドピアノの上に、ところ狭しと何かきれいな色のものがのっている。
近づいてみると、クリスマスカード。封をあけて、カードの文がよく見えるように置いてある。もっとよく見ると、いろいろな国の言葉で書かれていた。

「先生のお知り合いからですか?」
少しも嫌味なところなく、うふふ、と笑いながら
「すてきでしょ。カードをいただくと、お元気なのねって思うの」


今年5月に買った私のグランドピアノ。置いてあるのは小さなクリスマスツリー。これを置きながら、ちょっとうきうきした気持ちの、昭和40年代ヨーロッパが遠かった時代の、12月のレッスンを思い出した。


雪の日の下校

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昨日のコメントに、あいさんから新潟は雪景色とあった。

雪かあ・・・

小学校のころ、雪がかなり降り出すと、ほとんどの生徒が電車やバスで通学していたので、授業が切り上げられた。
授業がなくなって早く家に帰れることも、雪が降っていることも嬉しくて、いつもはぐずぐず教室に残っているのに、さっさと帰り支度をして学校を出る。

3,4年生の時だったか、粉雪がかなり降りしきる中バス停に並んでいたが、一向バスが来る気配がない。次のバス停まで歩こうよ、ということになり、友達7,8人で歩き出した。

次のバス停までの道中は、おしゃべりと雪で楽しくて、また次のバス停までいこうという。
その次のバス停まで、その次のバス停まで・・・と、のろのろ運転のバスが来ているのを横目に、結局終点の大塚駅まで、子犬たちが転げるように、ころころ笑いながら歩いてしまった。

学校を出て1時間半ぐらいかかっただろうか。
大塚駅について、さて山手線に乗り換えてと思ったら、雪のため運休!
バスは動いていたのに乗らなかった。山手線は疲れてもう歩きたくないのに動いていない。
私と同じ次の巣鴨駅まで一緒なのは友だちひとり。
家に電話したら「歩いて帰ってらっしゃい」と母にあっさり言われた。

大塚駅から巣鴨方面へは、かなり長く勾配のきつい上り坂がある。歩けるのだろうか・・・。
傘はさしてもほとんど役にたたず、制帽にもオーバーにもランドセルにも雪がつもり、手袋も長靴のなかもべちゃべちゃ。

それまでとはうってかわって、むっつり黙りこくって、ふたりで歩き出した・・・。
何度ころんだことか。足先や鼻先は感覚がなくなっている。雪がちっとも楽しくなくなった。

「じゃね、ばいばい」と、友だちとも分かれ、誰も足を踏み入れていない新雪の道にさしかかったとき、足がもつれて、ばったりうつぶせに倒れた。

もうじき家なのに、起き上がる気力もない。
ちゃんとバスに乗っていれば、今頃こたつで祖母とみかんを食べるだろうに、なんてばかなことしたんだろう。
雪に顔をうずめたまま声を出して泣いたが、声や音は雪が吸収し聞こえない・・・。

・・・やっとのことで家についたとき、母は雪だるまが立っているかと思ったそうだ。

彼岸花と学芸会

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白い彼岸花
宮崎は、まだまだ昼間は真夏の太陽が照り付けているが、植物は季節を忘れないんだなと、つくづく思う。

あちこちの道端で見かけるようになった彼岸花。赤や白、中には黄色みがかったのもある。
文字通り”お彼岸の花”だから、墓参りにいくと、彼岸花が生けてあるのが目に付く。

しかし舅は、彼岸花を仏壇や墓に供えるのを嫌った。理由はよくわからない。あの世に行ったらぎょっさんの彼岸花に迎えられるからと思ったのか・・・。だから、あらんだま一族の仏さん関係に彼岸花はない。

赤い彼岸花
小学校高学年のころ、学芸会で、劇をやることになった。
題名も内容も覚えていないが、舞台の上で演ずるには、一番遠いところにいるはずの、いしかわじゅんくんを、担任のまえだきょうこ先生が主役級に選び、彼が、なぜか赤い彼岸花を食べ、おなかをこわすというシーンがあった。
どきどきものの本番の日、彼は見事に演じきった!
なんで私が選ばれないという不満はふっとび、人は見かけによらないことを思い知り、まえだ先生の眼力に感服した瞬間だった。

お彼岸

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彼岸の墓参り
我が家の隣家は姑あらんだまばーちゃんの生家であり、近くに一族のお墓があるので、姑は節目節目の行事には必ず、兄弟たちと訪ねてくる。

その昔、まだ舅あらんだまじーちゃんが元気なころは、二人で軽乗用車に乗ってきた。
舅は、小学校の校長を退職してから、運転免許をとった。運転していくところは決まっていて、近くに嫁いだ娘の家と、車で30分ぐらいの妻の実家。

ある秋の彼岸の日、舅はいつものように妻を助手席にのせて、墓参りに来た。
もう少しで行き着くという手前にある急な坂道で、車はエンストした。
舅は若葉マーク。妻は免許なし。周りに人もいない。

「んんん~」と考え込んだ夫に、妻は「どうなさったとですか?」
「んんん~、動かん・・・」 妻はにこにこしながら「私が後ろから押しましょか?」
「うにゃ、それはいい。それより”(車の)仕様書”を取ってくれ。読むから」

私が運転して姑たちと墓参りにいくとき、そのエンストした坂を通る。そして、いつもこの会話を思い出す。
苦虫をかみつぶしたような顔をしていたであろう舅と、どんなことも動じない姑のコンビは、どのようにしてその苦難を脱したのだろうか・・・。


宮崎の2段と東京の2段

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宮崎の2段
宮崎市出身の夫も、東京都出身の私も、剣道2段を持っている。

彼は中学から。柔道部に入ろうと行ったら、練習で稽古着がはだけるのがわかった。それがいやで隣で稽古していた剣道部に入った(らしい)。
めきめきと頭角を現し、高校までお勉強の方は横に置いて、剣道一筋の毎日だった。数々の賞状やらトロフィーやらが物語っている。試合は常に真剣で、常に優勝することだけを目指していた。

私が剣道を始めたのは高校に入ってから。
チームは公式試合で1回戦負けは当たり前。早く負けて、女子部員が作ってきた豪華なピクニック弁当を食べるのがなにより楽しみという、部員は多いが、軟弱きわまりない剣道部だった。

だから剣道に対する考え方が根本的に違う。宮崎の2段は相手をとことん研究し、どうやったら勝てるか作戦を練り上げる。
東京の2段は、なんにも考えないで「め~ん」って撃っていって「こてっ!」とやられて、「弁当だべんと」と、いそいそ帰ってくる。

大学で"試合に勝つ”剣道を初めてみて、世の中に試合に勝つ人がいるんだと、私は目を瞠った。
彼は、これほどへたくそな2段見たの、初めてだった・・・。


月夜の猫

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肉球
まだピアノ講師をやっていたころ、ゲットした理由は定かではないが、臨時収入が8万円ほどあり、毎日何に使おうかなと、にまにましながら考えていた。

ある夜、仕事が終わり、いつものように、伊勢原駅で電車をおり、愛用の自転車に乗り換えた。
帰り道の左右はどこまでも広がる田んぼ。稲刈りを終えた香ばしい中を、めいっぱいペダルを踏み、満月を仰ぎながら、25分のサイクリングは、けっこう楽しい。

ふと左前方に目をやると、土の見えた田んぼから動くものがある。
猫だ。弾むように、道にむかって走ってきている。しなやかでリズミカルな動きがなんともいえず小気味いい。

私のはるか前を猫が横切ろうとした瞬間、自転車を追い越していった車が撥ねた!猫は、まりのようにぽーんと飛んで、道の反対側に落ちた。月はそのすべてを明るく照らしていた。
車は何事もなかったように、スピードも落さず走っていった。

身体が凍った。どうしよう・・・助けようか・・・死んでいたらどうしよう・・・

・・・私は自転車を止めることができなかった。振り返ることもできず、夢中で自転車をこぎ家に帰ったが、意識はあの時で止まってしまった・・・。

翌日、たまたま仕事が休みだった夫が、車で私を伊勢原駅まで送っていってくれた。
死んだ猫の脇を通るのか・・・気が重かった。

「このへんなの」と言ったあたりに、小学生が何人か集まって地面を見ていた。
夫が車を止め、降りていくと、道端で猫が横になったまま、首を持ち上げ、きょろきょろしている。
生きていたんだ!
「お願い、この子、病院に連れて行ってよ」

1週間後、退院してきた猫は、幸いにも骨折もなく、打撲のみ。撥ねられたあたりに置いてくるわけにもいかず、連れた帰った。
うちの大勢の猫にも動じず、敷いてやったクッションに、当たり前のようにゆったり身を横たえた。その様、アラビアの王様サルタン。つけた名前が”サルタンとら坊”

それから2ヶ月ほど我が家で養生し、彼は出て行った。
臨時収入の8万円、サルタンとら坊に全部使い果たした・・・。


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今月のあらんだまおばさん

2008年7月

あらんだま!フラおばさん

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